花伝コレクション

​明治伊万里とは

明治伊万里とは、江戸期の古伊万里と一線を画した思想性を帯びた国際的商業用美術工芸の陶磁器であり、明治期に輸出用に製作された有田焼です。

外貨獲得のために国の殖産工業政策に乗じて、万国博覧会を舞台に展開され、

19世紀末に花開いた有田焼の明治期の新たな様式美になりました。

それは、『和魂洋才』の融合で結実したものと言えるでしょう。

​当主は、欧米に古伊万里を収集するために出かけた折、明治伊万里の傑出した

様式美に出逢い、既に30年あまりの歳月が流れましたが、発見するものには

いつも新鮮な驚きを禁ずることができません。

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​東西古今

花伝オリジナル食器

花伝のオリジナル食器は、温故知新に基づき、有田焼の伝統を重んじ、新しい

生活スタイルに合わせた創作を行なっています。

ほとんどの商品が手作り手描きの良さがあり、品格ある趣を漂わせています。

日本の食文化は、世界遺産になりましたが、器の取り合わせも、

世界に類を見ないスタイルを折り込み、素材や手技の良さを

鍛えられた職人によって凝縮されています。

これまでの伝統を踏まえ、日本人の美意識を留めた器を

暮らしの中でお楽しみいただければ幸いです。

​店主がロシアで出会った古伊万里の旅の話です。

​お時間あるかたは、是非ご一読ください。

「古伊万里の知られざる出逢い」 1996年、有田町にとっては7月から始まる【世界炎の博覧会】開催を

控え、大きな期待と緊張に包まれていた。有田焼は佐賀県の顔として、この一大イベントを県下挙げて成功させ、未来に向けて限りない発展を夢見ていた頃だった。 ロシアのサンクトペテルブルグのエルミタージュ・ミュージアムに日本からの学術調査団が入り、古伊万里をはじめ浮世絵などのコレクションを調査した結果、その収蔵目録が編纂された。 私はそれを入手する機会があり、無性に自らの目で確かめたくなったのだ。 古伊万里や柿右衛門の里帰り事業に携わっていた私は、その頃、ヨーロッパやアメリカのオークションや骨董店へ頻繁に出かけていた。

エルミタージュ冬宮(現在はエルミタージュ・ミュージアムとなっている) 私は博覧会後の有田焼のブームを

冷まさないために、ロシアにまで古伊万里、柿右衛門が拡大、伝播していたその輸出事業の壮大さをメディアに訴え、国内市場での優位性を保たせたかったのである。 モスクワ経由で清々しい初夏の陽気が漂う6月、嘗てのロマノフ王朝の都・サンクトペテルブルグに初めて降り立った。エルミタージュ・ミュージアムの絵画展を東京で開催するために美術館館長やら新聞社の人たちが日本からやってきていた。ロシアの旧帝都はソビエト連邦崩壊後、急激に観光客も増えていて、ちょうどその頃は白夜音楽祭が催され、街は外国人らしい人達で活気付いていた。 先の調査団の一人、別役泰子先生からの紹介でアポイントを取っておいたお蔭で学芸員の案内を受け、首尾よくエルミタージュの地下倉庫に眠る日本の陶磁器にお目にかかることが出来た。

エルミタージュの地下収蔵庫 まだ、殆ど整理されておらず、案内の学芸員も日本の陶磁器の専門ではなく、私に産地や年代を訊ねてきた。古伊万里や柿右衛門はじめ19世紀の香蘭社や深川製磁の陶磁器が有田のものでは目立った 因みにロマノフ王朝、最後の皇帝ニコライ2世は香蘭社や深川のファンだったようである。1891年、皇太子時代に日本を訪れ、長崎に上陸したときには出島の香蘭社支店に立ち寄り買い物をしたそうである。香蘭社は大壷を献上し、ロシア王室御用達の名誉に浴した。地下倉庫にはそれらしき大壷があったが破損していたのが残念であった。 収蔵品の中で特筆しておきたいのは50枚もの髭皿(丸皿の縁の一部分が三ケ月型に割いてある)であった。(この髭皿は髭剃り用に、使ったといわれているが、【刺絡】(しらく)といって関節の静脈に針を刺して悪い血を抜き取るときの受皿として医療用にも使用した。【瀉血】とも云う) 私は既に旧東ドイツのドレスデンにあるアウグスト1世・強王のコレクションをはじめイギリス、オランダ、ドイツの各美術館、諸城の収蔵品を見ていたので、それに比べると質量共に迫力はなかった。 それでも視点を代えれば、数十種類の珍しい急須や食卓小物の類は日常生活の宮廷文化として検証に値するものと思われる。

多少、気落ちしたものの同行した通訳から、ここから南東へ26キロほど行ったところにプーシキン市と云う女帝エカテリーナ二世が夏の離宮として滞在していたところがあると聞き、行ってみることにした。その宮殿は文字通りエカテリーナ宮殿と云う。プーシキン市と云うのは有名な詩人であり小説家で、ロシアの国民的大詩人の名前を冠した新しい名前で、旧ロシア時代は『ツアールスコエ・セロ』『帝王の村』といった。貴族のための中・高等学校があり、プーシキンも学んだ。

私はタクシーを雇い、約50分であまり期待もせずにたどり着いた。好天に恵まれ、初夏の日差しに映える女帝が愛したロココ様式の宮殿を仰ぎ見た。白亜のベースに明るい青の壁、彫刻された縁取りに金箔を貼り付けた外観の装いは、優美且つ壮麗であり、目に眩しかった。『まあ、これを見るだけでも来た甲斐はあったなあ』と思った。 宮殿の入り口には18世紀の服装をした楽士が澄んだフルートの音色で見学者を迎えてくれる優雅なサービスは旅情を掻き立てた。広大な庭園はヨーロッパのものとは又違う樹木が人工的でなくおちつきがあった。静寂が漂うロマンチックな雰囲気がある。玄関で靴ごと履ける大きなスリッパを突っかけ、土産物屋のある雑然としたフロア-を抜け、2階に上る階段へと進んだ。広い階段は、上り口が対面にもあり、見上げると両サイドの壁には一区画の中心に古伊万里の兜鉢が埋め込まれ、シンメトリーにラッパ型の壷や蓋付きの沈香壷が飾られているではないか。何本か中国の陶磁器も混じっているが殆どが古伊万里だ。壁を五つに区画し、夫々同じあしらいが施してある。片方の壁も同様である。採って付けたような飾り方ではない。宮殿の設計の段階で、訪れる者達の驚嘆を計算した装飾である。ゆったりとした踊り場があり、歩みを止めて鑑賞できる効果もねらった豪華な階段である。ベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿やその他の宮殿と違う点は余白を活かした間の取り方だ。

階上に上り金箔の壁と絢爛たる天上画を見上げる謁見の間では驚嘆の目をこすり、胸の鼓動を抑えながら居間のコレクションに期待が膨らんだ。 「やはり、ここにはあった。」 イギリスの王室にもある面取り人物文有蓋壷や瓢型の岩花鳥図壷(アウグスト1世のコレクションに類似品が見られる)など何れも柿右衛門様式の最優品である。名品との出会いにはいつも感動がある。 リビングやダイニングルームのマントルピースの上に、やはり一対でシンメトリーに据えられていた。 他の居間にも大ぶりの男女の古伊万里人形、沈香壷が数点あった。 居住空間の要所要所に飾ってあるだけなので、他にも在庫がありそうな気配を感じた。どうして、今まで日本に紹介されなかったのか訝しく思った。

ロンドン郊外ハンプトン宮殿に類似品あり 歩みを進めながらあることを思い出していた。 時の権勢を謳歌していた女帝に日本人として初めて拝謁した人物がいたことである。 その人物とは1782年(天明2)アラスカに近いアリュウーシャン列島のアムチトカ島に漂着した伊勢の人、大黒屋光太夫である。10年近くの歳月をロシアで過ごし、許されて帰国した。 極寒のシベリア1万キロを昼夜無く横断してペテルブルグに赴き、女帝に謁見し、帰国を嘆願したと云う。 彼は母国の焼き物を見たはずなのだが、何かに記載してはいないのだろうかとあれこれ考えた。 帰国後、私はエカテリーナ宮殿が歴史の一場面で漂流民光太夫の人生を大きく左右したことに興味を惹かれていった。 かすかに記憶していた書籍とは井上靖著『おろしゃ国酔夢譚』だった。その小説の基になった、日露交渉史の中でも一級の文献である『北槎聞略』は、光太夫の漂流記と併せて18世紀末のロシアの社会風俗全般に渉って記述されたものである。 この宮殿を建設した女帝エカテリーナ2世はドイツ・プロイセンの弱小貴族の子に生まれた。 東洋の珍しい高価な陶磁器などは身のまわりには無かったかもしれないが、この国の支配者である大王フリードリッヒ2世はポツダムのサン・スーシー宮殿に素晴らしい東洋陶磁器のコレクションを有していた。彼女の婚儀に深く関わった人物でもあり、王宮に上る機会もたびたびあったであろう。幼小時代から彼女の王侯貴族の生活文化に対する知識や体験は、やきものの存在が無縁ではなかった筈だ。 夫であったピョートル3世も同じくドイツの生れであった。彼はロシア皇帝でありながらドイツ贔屓で大王フリードリッヒ2世を敬愛していた。(その偏愛が彼の命取りになるのだが、、、、。)

崇拝したフリードリッヒ2世の宮殿はロココ調の最高傑作であり、当時流行していたシノアズリー(東洋・中国趣味)を内装に取り入れていたので、それに倣えば、東洋の陶磁器は必要不可欠の調度品であった。 夫ピョートル三世は無能で、反国家的とも思われた。例えば、国益に反するプロイセンとの講和とか、軍装をプロイセンに真似たりする常軌を逸した君主だったので、エカテリーナは寵臣と共謀し、夫を退位させ自ら即位した。 彼女は当初、法治国家と法の前に万人の平等を謳い、フランスの啓蒙主義者ヴォルテールなどと文通を交わしたり啓蒙君主を装ったりもしたが、現実には貴族の協力無しには治世の安定を図れぬと考え、農奴制を強化するなど反動的な面が強かった。 また、光太夫が謁見した時期は、数多の寵臣の中でもとりわけ相思相愛の関係であったポチョムキンの活躍によって、領土拡大政策にのっとり、黒海進出を半ば達成した。そして又、ポーランドをも併合する。30年の女帝の治世下で絶頂期にあった。女帝は大変、好奇心旺盛な偉大な読書家であり文筆家でもあり、文化の保護育成に力を注いだ。蔵書の数は各国の王家のなかでも群を抜いていた。 公私において毀誉褒貶、相半ばする女帝エカテリーナ二世は、良くも悪しくもロシアをしてヨーロッパの三大強国の礎を築き【大帝】の称号が与えられた事も頷けるのである。

このような、知性と教養と権謀を兼ね備えた女帝が光太夫に謁見の機会を与えたのは単に哀れみと同情だけではなかった。 女帝は光太夫等が漂流からシベリア横断の経緯や、仲間の死を詳らかにすると「『可哀そうなこと、-ベドニャシカ』女帝の口からは再び同じ声が洩れた。光太夫にとっては一切のことが夢心地の中に行われていた。」(おろしゃ国粋夢譚より) 女帝に謁見させるために犬馬の労をとったキリル・ラックスマンの助言があったとは言え、光太夫等3人を無事、丁重に帰国させ、通商のために使節を送る事を許可した女帝の人間性とその見識は評価されるべきだろう。 17世紀中ごろ≪オランダ連合東インド会社≫によってヨーロッパにもたらされた古伊万里は日本からの文化使節として一足先に出向き、どのような扱いを受けていたか光太夫は勿論、幕府でさえ認知してはいなかったであろう。 女帝は既に東洋のあらゆる文物の中でもインパクトの強い焼き物を通じて日本についてのインフォメーションをオランダなどからほぼ手中にしていたのではなかろうか。 日本がどのような国であるか高度な焼き物の技術を見ても明らかな筈である。女帝にとって魅力的な文化を保有している国であるとの認識があったと思われる。自身が所蔵している日本の絵草子やら書物を何冊かを光太夫に見せて下問している。 女帝はツアールスコエ・セロで2度会い、ペテルブルグの冬宮で最後の席では煙草盆を下賜している。 拝謁後の光太夫は、皇太子に招かれたり、そこからの帰りには皇族が使う8頭立ての車で送られたりとそれまでの苦難が嘘のように帰国まで、至れり尽せりの歳月が暫く続く。

光太夫の帰国の際はロシア人キリル・ラックスマンの次男アダム・ラクスマンが同行して幕府へ通商交渉を持った。しかし、江戸幕府の許可は降りず、次回長崎での交渉権だけを携えてラクスマンは帰国した。日本人として初めて古伊万里や柿右衛門と異国の居住空間で同じくした第一号の光太夫であったが、彼の視野に入らなかった事は残念なことだった。女帝の鶴の一声で彼の運命が左右される瞬間に臨まんとする時、自分の足下を見つめ、先導する者にかしこまって歩く姿を容易に察することはできる。私がうらめしく思うのは『おろしゃ国粋夢譚』は映画化され現地ロケまで行われ、名優・緒方拳が主役で上演された。しかし、私が吃驚した2階へ通じる階段の壁面に飾られている古伊万里は映し出される事は無かった。光太夫が記述していなかったからか、階段を上っていくシーンが撮られているにもかかわらず、である。 オリジナルの壁面ではないと映画監督は思ったのであろうか 「玄関をはいるとすぐ階段があった。赤い木で造られた階段で、左右両方から上れるように二つあったが…中略。一列になって上って行った。この頃から光太夫は夢心地になっていた。」(おろしゃ国粋夢譚より) 光太夫は船頭だったとはいえ、ロシア語の習得も早く、日本人としての矜持も高く、仲間の面倒見もよく、勇気あるバランスの取れた人物であったと推測される。 その光太夫をして、『古伊万里と漂流民光太夫』の一場の一コマはめくるめく、霞んでしまった。ちなみに、江戸時代に日本の陶磁器が彼の地の宮殿文化に関わりを持っていたことを公にしたのは明治の文豪・森鴎外である。 明治17年、ドイツに留学した鴎外は古都・ドレスデンに滞在して宮殿の陶磁器の間(ポーセリンキャビネット)を観察している。彼の短編集・『文づかい』があるが、そこでは『陶物の間』(スエモノノマ)として描写されている。 日本の近代化のために留学したものの、批判なき盲目的西洋化が進んでいく国内の現状を矛盾した思いで、卑屈になるときがあったらしい。 広々とした居室の中に誇らしげに中国や日本の陶磁器が飾られていることを淡々と記述している。 7年の歳月は私の区々たる野心を一蹴して、過ぎ去ろうとしている。 有田は瀕死の状況である。「先に物ありき」がもたらした付けではないだろうか。 歴史の荒波に抗し、命がけでその瞬間を生きてきたものには物語があり、感動がある。 成敗にこだわらない営々と努力し続ける魂こそ美しく、尊いのではないだろうか。 目先の功に逸った私は、今では忸怩たるものがある。 何時の日か、同郷の大先達、「香蘭社」の元社長・故深川正氏の情熱を受け継ぎ 『古伊万里の旅路の果て』として綴ってみたかった。 漂流民・大黒屋光太夫のすれ違いの裏面史に古伊万里・柿右衛門をどうしても介在させたかった衝動は持続していた。私にとっては胸の支えがやっとおりた。 有田の焼き物を愛し、自然を愛し、その歴史や風土にロマンを感じている者の一人として、世界を旅した有田焼の軌跡を今後も書き綴ろうと思っている。 

壮大な旅・古伊万里のロマンを求めて ロシア編